梁山泊倶楽部

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新田次郎著『ある町の高い煙突』映画化、爺の資料・蔵書紹介 (梁山泊倶楽部)  [2017.4.14]

 『ある町の高い煙突』(新田次郎著)の映画化新聞記事紹介の第2弾である。梁山泊倶楽部の爺宅書架にある資料を紹介するコーナーである。

 新聞記事情報紹介のブログで記載したが、いつものように本(資料)の体裁(装丁など)、奥付その他をUPすることで、このような参考資料もあるのだということをご覧いただきたい。

1.郷土ひたち文化研究会発行/関右馬允著『日立鉱山煙害問題昔話』(日鉱関係忘れ得ぬ人々)
日立鉱山煙害問題昔話表紙
郷土ひたち文化研究会発行/関右馬允著『日立鉱山煙害問題昔話』(日鉱関係忘れ得ぬ人々)表紙
日立鉱山煙害問題昔話奥付
関右馬允著『日立鉱山煙害問題昔話』奥付
日立鉱山煙害問題昔話著者略歴
『日立鉱山煙害問題昔話』著者略歴
日立鉱山煙害問題昔話(正誤表)
『日立鉱山煙害問題昔話』正誤表
日立鉱山煙害問題昔話(読後感要望しおり)
『日立鉱山煙害問題昔話』読後感要望しおり
【爺のコメント】
 この本のタイトルのとおり「昔話」としてあるが、まさしく市民の側から“鉱毒(煙害)問題”に真っ向から取り組み、筆舌に尽くせぬ苦労の末、現在がある。その主人公が書いたものである。関右馬允こそ、その人である。茨城県山岳連盟加盟「常北山水会山岳部」の創始者であったと記憶している。奥付の上肩にNO.が打ってあるが、非売品であることに加えて、どこの誰に贈呈(配付)したか分かるようにしてある。恐らく、日立市郷土博物館、日立市立図書館などに保有しているであろう、この本(資料)と新田次郎著『ある町の高い煙突』を読めば、当時の苦心惨憺があなたの胸元にグサッと入り込んでくること間違いなしである。

2.筑波書林刊/柴田勇一郎著『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)
鉱山電車むかし話(表紙)
筑波書林刊/柴田勇一郎著『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)表紙
鉱山電車むかし話(奥付、著者略歴)
『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)奥付、著者略歴
鉱山電車むかし話(目次①)
『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)目次①
鉱山電車むかし話(目次②-③)
『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)目次②-③
鉱山電車むかし話(目次④)
『鉱山電車むかし話』(無賃電車が走った町・日立)目次④
【爺のコメント】
 爺の幼かった頃、遊びの一つに「鉱山電車に乗る」ことがあった。日立駅の引き込み線わきに鉱山(我々は日立鉱山をただ単に「鉱山」と呼んでいた)の無賃電車(我々は「鉱山電車」と呼んでいた)に乗ることが楽しみだった。始発が日立駅そばの「助川(すけがわ)」、二つめが「柴内(しばうち)」、三つ目が万城内(ばんじょうじ)球場=日鉱日立の野球場)そばの「杉本(すぎもと)」、そして終点が「大雄院(だいおういん)」であった。「杉本」は山の際(きわ)にあって、その名の通り杉山が控えていた。その山に入って「ニッキ」(木の根)をとってよく噛んだものだ。「大雄院(だいおういん)」まで行くと、その先には歩いて行かねばならないが、すぐに饅頭屋があり、曲がりくねった急坂を登り、道路の左右に点在する鉱山社宅や民家を眺めながら、一本杉が道路の真ん中に鎮座するのを見ながらなおも進む。当然、大煙突が見え隠れしながらの行程である。いまでも人気の高い「神峰山」、「高鈴山」の登山口のある「向陽台」などもあった。ずっと歩くと左側に本山中学校、右手に本山小学校校舎があった。(どちらも廃校になった)あー、バスが走っていたっけ。「東河内」行き、「木ノ根坂」行きがあった。

3.筑波書林刊/菊池竹史編『回想・日鉱日立硬式野球部』
回想・日鉱日立硬式野球部(表紙)
筑波書林刊/菊池竹史編『回想・日鉱日立硬式野球部』表紙
回想・日鉱日立硬式野球部(奥付、著者略歴)
菊池竹史編『回想・日鉱日立硬式野球部』奥付、編者略歴
回想・日鉱日立硬式野球部(目次①のみ)
菊池竹史編『回想・日鉱日立硬式野球部』目次の一部

【爺のコメント】
 手元にある本の表紙裏には、「謹呈」の菊池竹史さんのサインがある。実は、菊池さんとは幾度かお目にかかっている。もちろん、現役バリバリの新聞記者時代ではない。新聞社を退職してから地元の病院の役職を得ていた頃のことである。爺の勤務する会社とのご縁があり、親善野球大会か何かの席でお逢いし、日鉱日立野球部や砂押監督、当時の選手の思い出をお話ししたところ、後日、氏からこの本を頂戴したのだ。爺の昔日の映像を、今に蘇らせてくれた一冊であった。映画の中で、時代を経て、万城内球場や鉱山電車が“ヤマの早慶戦”(毎年恒例の日製×日鉱対抗試合)の際に球場脇の線路を、ゆっくりゆっくりと走行し、乗客(お金を払わなくても客というだろうか?)に試合を観戦させてくれた想い出の一コマが映じてくる。過去のブログに書いたが、爺の父(野球狂=やきゅうきょう)はヤジ将軍として有名であった。どちらかというと、父は日鉱日立びいきであったと記憶する。ただし、都市対抗野球で日製(日立製作所)が勝ち進んだ場合は、後楽園球場の試合には必ず応援に出かけた。もちろん、応援団の一員として入場するのでタダ(応援入場券をもらって)である。いつだったか、もう時効だろうから白状するが、後楽園球場での試合が長引き、常磐線の下り最終列車がすでに出てしまった。爺の父は、旧国鉄の信号所員であったから、客車以外の鉄道ダイヤ(時刻)が頭に入っていたようだ。東京近辺の貨物操車場(場所は覚えていない)へ地元から応援に行った5~6人で行き、貨物列車の車掌(当時は貨物でも車掌が乗車していた)にお願いして、有蓋貨車(屋根のある貨車)へ乗せてもらって地元(日立市)まで帰った記憶がある。もう60年くらい以前の昔話だ。
Pim0067_2017041511060917b.jpg
爺の父若かりし頃(昭和15~16年頃)
 とにかく野球好きであった。日本が軍靴の音高くなりつつあり、米国真珠湾を攻撃し、戦線をアジア諸国に拡大する頃であったようだ。世が世なら、とか、非国民などと言われそうだが、とにかく父はスポーツ、とくに野球が大好きであった。「野球狂」といわれる所以(ゆえん)である。もちろん、この当時「硬式野球」であり、プロ野球球団もあまりなかった時代である。前列中央でサングラス姿で、大威張りしているのが爺の父の在りし日の姿である。

4.筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』{常磐線日立駅(海岸口)あたり}
街史・助川駅界隈(表紙)
筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』{常磐線日立駅(海岸口)あたり}表紙
街史・助川駅界隈(奥付、著者略歴)
筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』奥付、著者(共著)略歴
街史・助川駅界隈(目次①)
筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』目次①/②
街史・助川駅界隈(目次②)
筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』目次②/②
街史・助川駅界隈(5P大正の旭町家並)
大正10年頃の旭町(日立駅海岸口付近)の家並
  [筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』より転載]
街史・助川駅界隈(6-7P昭和初期の旭町家並)
昭和10年頃の旭町(日立駅海岸口付近)の家並 
 [筑波書林刊/村田忠次郎・千田正哲共著『街史・助川駅界隈』より転載]

【爺のコメント】
 昭和20~30年代の国鉄常磐線日立駅海岸口を爺たちは、「旧駅」と呼んでいた。もっと古い大正時代の風景は我々の時代ではなく、この本を執筆した村田忠次郎さん、千田正哲さんの時代だ。この“旧駅界隈”は、かつて割烹旅館街であった。戦前戦中には待合などもあったようだ(爺は知らないが・・・)。爺も、三味の音(ネ)で産湯(うぶゆ)を浸かり、通りを行き交う芸者さんの白粉(おしろい)の香を胸いっぱい吸って育った。我が家はそうした稼業ではなかったが、母の近い親戚筋が線路わきで割烹旅館を営業していた。水戸市内でも、かつて割烹旅館を経営していた縁戚があった。もっとも、日立の割烹旅館も、戦火が拡大して常磐線沿線の家屋はすべて強制疎開させられ、割烹の営業をやめ、旅館もすべて取り壊された。そうそう、水戸の母方の縁戚経営の料亭の名前を思い出した「垂揚亭」だった。今は亡き父母の遺した写真がたくさんあり、その中に「垂揚亭」(料亭の建物の写真はないが)に関するものがあった。亡き女将の葬儀の写真だと思う。参列者の記念写真には、爺の祖父と祖母の姿が見える。祖父は文久元年(1861年)生まれ、若かりし頃「訓導(教師)」であった。江戸時代の終盤に生を受け、訓導となった祖父の教え子に、吉田彌平氏がいる。吉田氏は、後年、国文学者となり中等学校(現在の高等学校)、師範学校(現在の教育大学)等の国語教科書を執筆し、文部省の教科書検定などを行った。
垂揚亭②
垂揚亭の女将またはご主人の葬儀だろうと思う写真①
垂揚亭①
垂揚亭の女将またはご主人の葬儀だろうと思う写真②
  坊さんの右側(向かって左隣り)が祖父、坊さんの頭頂左(向かって右)が祖母である。
垂揚亭③
写真台紙の写真館名(現存して立派な経営をしている写真館)

5.日立市老人クラブ あさひ睦会刊『旭町の今昔』(終戦時まで)
旭町の今昔(表紙)
日立市老人クラブ あさひ睦会刊『旭町の今昔』(終戦時まで)
旭町の今昔(奥付)
日立市老人クラブ あさひ睦会刊『旭町の今昔』奥付

【爺のコメント】
 先に紹介した『街史・助川駅界隈』に重なる部分がほとんどであるが、この本(『旭町の今昔』(終戦時まで))では、旧駅界隈(=旭町)の生業(なりわい)が生々しく描かれている。両書の執筆者が殆ど同じであることから、資料出所は同一であるが、各割烹旅館、芸者置屋、検番などがこの時代、どのように生きてきたか。どのような生業(なりわい)の家々が、どのように生きてきたか。各人が無益と思ったか、有益と思ったか知らないが、忌まわしい太平洋戦争を、どう生き抜いてきたかを知る道標(みちしるべ)になると思う。少し昔、日立でもこの地(助川=旧駅界隈、会瀬地区など)は、避暑、避寒の地であった。つまり、文人墨客の別荘地(避暑地)であった。後背が阿武隈山地の低山で覆われ、眼前に黒潮流れる温暖な海に挟まれた絶好の別荘地であった。皆さんもご存じの作家、芸術家が長逗留して、避暑避寒の時期を過ごした土地であった。
 爺の小さき頃、日鉱・日製の保養所が会瀬海岸近くにあって、鉱山電車(無賃電車)で来るヤマに住む家族(本山、大雄院、宮田地区)や常磐線を利用して海の無い地方からたくさんの海水浴客が来訪した。爺たちは、我が家から“ふんどし”(6尺の晒し木綿で大事なところを隠す)や海水パンツ一丁で、海水浴場(会瀬、初崎)へ向かったものだ。とくに、日立鉱山の「海の家」はよく利用させてもらった。会瀬の高台にあって、休憩室や風呂場があって、爺たち社外の者もシャワーや「麦茶」を幾らでも飲むことができた。寒い日には、麦茶を身体に掛けて暖をとることも、しばしばであった。日製初崎海の家(保養所)も同じように社外の人も受け入れてくれた。本当にありがたかった日製、日鉱の海の家(保養所)であった。
 嵐の日には、割烹旅館の厨房から、我々子供たちへのプレゼンゼントが供せられた。料理用の「うなぎ」が天水が溢れて、下水に流れてくるのだ。爺たち、子供たちは我先に「うなぎ」採りに夢中になり、戦果は我が家の夕食になり、加えて、「かあちゃん」のお褒めの言葉も頂戴できたのだ。

6.筑波書林刊/柴田勇一郎編『写真帖 想い出の鉱山電車』
写真帖 想い出の鉱山電車表紙
筑波書林刊/柴田勇一郎編『写真帖 想い出の鉱山電車』表紙
写真帖 想い出の鉱山電車奥付、著者略歴
筑波書林刊/柴田勇一郎編『写真帖 想い出の鉱山電車』奥付、編者略歴

【爺のコメント】
 先に紹介した『鉱山電車むかし話』の著者/柴田勇一郎氏の本である。さすがに、元日立鉱山に勤めていた方だけあって、多くの皆さんに資料、写真等の提供をいただいて本著の刊行となったようだ。とにかく貴重な写真がたくさん収録されている逸品である。巻末に「鉱山電車追憶」として、柴田氏が3頁にわたり、鉱山電車の“生い立ち”から“花電車による別離”までを書き添えている。なんとか映画化の折には、このような私たちが追憶できる場面も拵えてほしいと願うことしきりだ。

テーマ:茨城県 - ジャンル:地域情報

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